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- 全国ソムリエ最高技術賞
コンクールで優勝 - 23歳で準決勝に進んで最下位だった雪辱を果たしたいと、コンクールの直前一週間、ほとんど睡眠も取らずに勉強して挑んだ。
先輩たちの熱心さに触発され、フランス行きを決意
僕がサービスの仕事の楽しさに目覚めたのは、3店舗目のレストランに転職したとき。ちょうどクリスマス繁忙期だったんですが、即戦力になれるよう、大きなサーバースプーンとフォークを片手で持ちながら、丸めた布巾と爪楊枝を交互につかむ練習を繰り返しました。一人一人の客席への料理の盛りつけ、焼けた肉にブランデーをたらして火をつけるフランベ、料理に合うワインの提供。このとき僕は「サービス」という仕事に目覚めたのです。
その後も配膳会に登録して朝から夜まで仕事のあるホテルで働き、手取りの収入は増えたのですが、日本一のサービスを勉強したいという思いが強くなりました。給料が半分以下になることを承知で、銀座の高級ドイツ料理店に就職。さらに、六本木の高級フランス料理店に転職しました。 ここで、洗練された手さばきでお客様に料理をサーブする先輩たちのかっこよさに惹かれたんです。さらにそこで働く先輩たちは、勉強熱心で料理のこともよく研究していて、大きな刺激を受けました。その姿を見て、「日本で最も高級なフランス料理店の支配人になろう」と目標を持つようになりました。負けず嫌いなので、こうと決めてやるからには、何でもトップを目指したいんですね。
ところが、フランス料理に必要不可欠なワインのことを覚えるのが非常に難しい。10代の身では、テイスティングをしてもおいしいと思えないし、味の違いも分からない。今のようにインターネットの情報がないのはもちろん、当時の日本にはまだワインがそこまで普及しておらず、十分な資料を揃えることですら困難でした。その状況から、フランスに行くしかないと思ったんです。
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- 歳
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国内コンクールの優勝で注目を浴びる
当時はレストランの月給が数万円なのに、渡仏する航空券だけで30万円以上、滞在費も含めると100万円は必要でした。そこで、短期間でお金を稼ぐために勤めを辞め、朝・昼・夜と3つのアルバイトを掛け持ちして貯金、19歳でフランスに行きました。1度では十分な知識を得られず、さらにアルバイトをして渡仏。ソムリエスクールで2年間勉強しました。
帰国後、国内のソムリエコンクールに出場したのですが、予選は通過したものの、準決勝では最下位に。本場フランスで学んだという自信もあり、すごく悔しかった。悔しさを胸に、本格的なトレーニングを積んで25歳のときに優勝しました。上位入賞者は東京・大阪の高級ホテルのソムリエばかりのなか、当時の僕は日本人のお客様に合うサービスを勉強しようと和食店に勤めていました。そんな若造がいきなり優勝したものですから、一気に注目を浴び、その日から取材攻勢が始まって、店は連日連夜満席に。それまで「漁師になりたい」「料理人になりたい」「レストランの支配人になりたい」と、徐々に目標を絞ってきた僕でしたが、この優勝がきっかけで「ソムリエという職業でいこう」と決めました。
また、ちょうどこの時期は日本国内でも手軽にフランス料理を楽しめるお店が増えワインブームが広がり、ソムリエ希望者に向けた講演やセミナーにも頻繁に呼ばれるようになっていたんですね。収入も跳ね上がりました。「タイトルを獲る前と後ではこんなにも違うのか」と驚くほど周囲が変化しました。19歳のときにひとりでフランスに行ったときは、ワイナリーで門前払いを食うことも多かったのに、優勝の副賞としてフランス旅行に招待されていくと現地でも歓待を受け、すっかり有頂天になってしまいました。ただ、このときソムリエの世界チャンピオンにお会いする機会があったのです。これが本当に幸運でした。あのときお会いしていなかったら今の僕はないと思います。圧倒的な実力差を突きつけられ、「日本のソムリエチャンピオンなんて意味がない。次は世界を目指すべきだ」と奮い立たせてくれたのです。