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- カメラや映画の被写体としても活躍
- カメラマンから撮影の申し出を受け、納得できる写真が撮れるまで何度も山を滑った。修行時代の被写体経験が、後の富士山やエベレストでの映画制作へとつながっていく。
時代のニーズを読み取り味方を得る
1970年にはエベレスト山頂からのパラシュート直滑降に挑戦したのですが、当時の日本人にとってエベレストは未踏の地。誰も知らないエベレストで初の試みをするのだから、しっかり映像を残そうと「どうせなら将来、ハリウッドの映画祭でオスカーをもらえるような映像に」と計画しました。石原慎太郎さんが隊長で、石原プロの撮影スタッフを総動員してくれることになって。しかし予算がどんどん膨らみ、当時のお金で3億円くらいになってしまったんです。
資金集めは飛び込みですよ。ホンダの本田宗一郎さん、松下幸之助さん、サントリーの佐治敬三さんなどの元へ飛び込んではプレゼンテーションをしました。僕が大事にしたのは、時代のニーズを汲み取ること。プレゼン先の企業に価値ある提案になっているかという視点で、それぞれに合わせた企画書を入念に準備しました。自分が「やりたい」だけでなく、やる目的や社会的意義をきっちり落とし込み、相手企業が求めていることを広報宣伝できるよう組み立て、スポンサーになってもらうことができたんです。当時の赤井電機の赤井社長においては個人的にすっかり気に入ってもらって、社長の個人財産から1億円以上負担していただきました。
僕のプレゼンテーションの原点は学生時代にあります。当時もスキーをするお金が必要だったから、スキー部の仲間達とダンスパーティーやスキーメーカー協力のバーゲンセールなどの企画を立て、いろいろな人に「この企画はこう役立ちます」と交渉していたんです。この経験を通じて、物怖じせず人に掛け合える力がついたと思います。その頃の仲間たちが世界的研究者になっていたりするんですが、「三浦に騙されて学校サボってスキーだ山だとやっていたけれど、一番役に立ったのは、スキー部の資金調達だ」って言いますよ。
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「死んでもいい」ほどの執念が成功に導く
エベレストには、スポンサーのお金を使って大勢の人を巻き込んで挑むのですから、成功することがスポンサーへの当然のお返しだと思っています。ただ、達成できる保証なんてどこにもありません。成功を信じて進むためには、絶対にあきらめないという執念を持つことが大事です。最後は「これができたら死んでもいい」というほどの覚悟。それさえあれば、自分の中で揺るぎない目標設定をして、計画的に準備を重ねることができるし、不安やストレスさえもエネルギーになります。人は命を賭けると「生きて帰るんだ!」という強い力が出てきます。ビジネスでもどんな分野であっても、死んでもいいほどの意志を持てたら最高の能力が発揮できるんです。
アップルの創設者であるスティーブ・ジョブズ氏が、若い人に「ハングリーであれ、愚かであれ」と講演していましたが、その通りだと思います。僕自身も非常にハングリーだったし、周りから「馬鹿」「あいつ何やってんだ?」と言われましたけど、それを恐れちゃだめで。一歩間違えば命を落とす賭けをしているんだから徹底してハングリーでなくちゃいけない。そして、愚かと言われるくらい人の理解を超えた新しい分野に挑戦することが必要です。それを成し遂げてはじめて、新しい時代、あるいは自分自身がひらけるのですから。
そのお陰で僕はエベレストからのパラシュート直滑降に成功し、映像はオスカーをもらうことができました。アメリカ前大統領のジミー・カーターさんは、僕の映像を20回以上観てくれたそうで「人間の勇気、夢をあきらめない姿に感動した」と言ってもらえて、そんな嬉しいことも起こるんです。