2012年9月27日更新
プロ野球史上最長となる実働29年間という記録を打ち立てた工藤さん。「やりたいこと」だとは言えなかった野球を、怪我や不調、4回もの移籍を経験しながらもなぜこれほどまで続けられたのか。工藤さんが第一線で戦い続けることを可能にした、その思考と実践の哲学とは?
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- 「野球か就職か」ふたつの道しかなかった高校時代
- 名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校)3年時、甲子園に出場してベスト4まで勝ち進む。父親に進路は就職か野球と決められていた。
嫌いなことにも「覚悟」は宿る
僕は野球が嫌いでした。僕にとっての野球は生活するための手段だったんです。高校卒業時、家の経済的事情で僕には働くか野球を続けるかしか進む道がありませんでした。父はものすごく厳しく僕に野球をやらせ、野球の道に決めたのも父親です。就職先が決まった後、西武ライオンズの根本陸夫さんに父が説得されたんですね。野球をするしか選択肢がないという環境の中にいながら、僕は野球を好きにはなれませんでした。
でも、どうせやらなくてはならないのなら、どうすれば人より上手くなれるかを考えました。人が一年かかるものは一ヶ月で、一ヶ月のものは一週間でできるようになろうと練習したんです。狭い世界の中で嫌いなことをやり続けながらどう生きていくかという覚悟は、小学生の頃から持っていました。よく「努力したんですね」って言われるんですが、努力なんて当たり前。それ以上のことをできるかが大事だと思っています。
ところが、プロ野球の世界に入ってみると、あまりにもレベルが違いすぎた。練習も球のスピードもすべてのものについていけず、プロになったことを後悔しましたよ。自分はこんなところに入ってかわいそうな人間だなぁ、このまま終わっていくんだろうなぁ、なんて思いながら。周りの人がなんとかしてくれるだろうと人に頼っていた時期でもありました。
それじゃあだめだと気づいたのは3年目。広岡達朗監督(当時)のすすめでアメリカの教育リーグに留学して、自分より厳しい環境の中で野球する選手たちと出会った時です。プロである彼らが、部屋をシェアして窮屈な生活をし、車を相乗りして球場に来て、朝も夜もハンバーガーでしのぐという食生活でした。
そんな環境の中でも彼らは前向きで、「成功するんだ」っていう強い意志があった。それを見て、あ、自分とは全然違うと心底思いましたね。今ある環境を前向きに捉えて進む姿に刺激されて、僕自身の考えも変わったんです。
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ぼろぼろの中で掴んだ「考える量」の重要さ
留学後、それまで人から言われてやっていたことを、自分から主体的にやるべきことと考えて行動するようになりました。トレーニングを積極的に行うと、次の年には球が10km速くなった。物事の捉え方を変えるだけで成績にもはっきり表れるという実体験ができたんです。
ただ、この頃は若さで力任せに投げていた部分もあって、26、7歳のときに体を壊しました。健康管理もしていなかったし、ぼろぼろになりましたね。その頃出会った妻に結婚前、「来年クビになるかもしれないよ、それでもいい?」と聞いたんですが、妻は「いいよ。でもどうせ来年でクビになるんだったら一年間思いっきり頑張ってみない?」と思いがけない返事をくれて。妻は食生活面からの管理、僕は身体面からトレーニングを徹底的にやることにしました。
その時、足の筋肉の肉離れを起こしていたのですが、筑波大学に行くと、先生がちょっと僕の足を触って「治療では治らない、トレーニングをすれば治る」と言って。トレーニングをすると本当に痛みが取れていった。「野球のことを知らないのに何でわかるんですか?」という僕の驚きに対して先生は「野球は知らなくても、その人の動きを細部まで見ていたら、どう動くべきかわかるんだよ」と言うんです。そこから体のしくみについても学びはじめました。
例えば昔から「ピッチャーは肩を開くな」と言われていたけど、周りの人も、僕自身もその理由を説明できずに歯がゆかった。でも、体のしくみから野球を科学すると理由が分かるようになり、人にも説明できるんです。
そんなふうに、興味があることを更に掘り下げ、知らないことを知ろうと突き詰めて考えて得た知識が、野球にも活かされることになりました。考える量は、その人の引き出しを豊かにしますよね。だから僕は、考える量がすごく大事だと思っています。